カウンセリング

 

                                         

        生命の樹

    善でもない悪でもない完全な命

 

◎カウンセリング・根源から健康になって頂くため

  


今、全てを無条件に受け入れ、今に生きる。こだわりを手放しあるがまま生きる。今に生きる奇跡、受け入れる奇跡を体験していただきます。                 

 

▢導きの言葉▢                         

「一切唯心造」                                  

この宇宙全ては私の心が生み出している。心の他に何物も存在しない。(華厳経)

「汝の信ずる如く汝になれ」(聖書マタイ伝15)

 「汝信じるならば、全てことはなり得るのである。」(聖書マルコ伝9)            「何事にても、求むる時はそれを受けたりと信ぜよ。それを得ん」(聖書マタイ伝8)       イエスは信じる力が全てを生み出していると何度も語っている。 

「只是是。今ここ全て円かなり。大安心」                

小浜仏国寺、湛玄和尚の言葉。他の言葉に「今ここ全て一切を喜ぶ人は喜びの人」がある。

「大丈夫。何とか成る!」                           

一休禅師が亡くなる直前どうしても困ったときがあれば開けなさいと弟子に言って書いた手紙の文 他の言葉に「災いに会う時は会うがよろしかろ、病む時は病むがよろしかろ、死ぬ時は死ぬがよろしかろ」がある。ライオンキングでもスワヒリ語で「ハクナ・マタタ」と歌っています。

「視点より俯瞰して超バランス・完璧な対称性を知る。一切問題無く完璧・絶対安心」 

「目の前に感じるものを自分の内側と受け入れて本当の自分に戻る」              「目の前に現れたネガティブを闘わず愛の力を持って受け入れればそれは終わる。(合気道)    ロスコ氏は先人が語った真理に新しい表現を与え、実践法を示した。

「今を抱きしめる。状況に抵抗せず、今既にそうであるものを受け入れれ  ば全て極上になる。」                      

 エックハルト・トール氏はわかりやすい表現でほんとうの自分に戻る実践法を語った。

■「こだわりを手放し無執着で生きる ・恬淡虚無」(てんたんきょむ)    「恬淡虚無、真氣從之、精神内守、病安從來」黄帝内経  (中国医学のバイブル)

 恬淡虚無(てんたんきょむ)であれば自然とエネルギー(気)が満ちて、心はハツラツとして病が入り込むことはない。 外 の世界の動きを心配して憂うことく、心を内に向けて安心し、気の流れのままに従えば、それぞれの欲するところに従って皆がその願う所を得ることができる。だから、衣服はあるがままで捉われず、身分や名声の高下を羨ましがることもなく、世の流れのままを楽しんで、食べるものは美味しく、人々は素朴で自然な姿で生きる。誰もが何かに捉われるということなく、それぞれの道を歩んでいく。それが一(ワン)なのである。 だから皆百歳を越えても動作衰えることなく、己の天命を全うするのである。                                       (意訳)

 古代の中国鍼灸医学のバイブルである黄帝内経という本に健康と幸せの秘訣が書かれています。それが恬淡虚無(てんたんきょむ)なのです。思い込み・こだわりを捨ててあるがままに無執着で生きるという生き方なのです。

 しかし現代社会に生きる私たちは真逆の生き方をしてしまっています。 私たちは自分の中の不安・恐怖や欠乏感から逃れるために、お金や豊かさ、安心や幸せを必死になって求めます。しかしかなわず苦しまなければ成りません。そして多くのストレスを抱え込んでしまいます。その結果私たち個人も世界も望んだものとは正反対の病気や不幸、人間関係の不和、争いに見舞われ、出口が見えなくなっています。 私たちがこの呪縛から逃れ、健やかに幸せに生きる生き方が恬淡虚無という生き方だと考えています。何にも囚われず、こだわらずあるがままに、無執着になって生きるという生き方です。ほんとうの自分に還ると言うことも出来るかもしれません。

このほんとうの自分を、恬淡虚無の生き方を、話し合いの中で探っていきたい思います。

私たちにほんとうの自分に戻る道を示していただいた多くの先人に深く感謝をします。

 

 病は私たちの心の持ち方、人間関係、生活、食事、運動、環境などの歪みが原因となってもたらされると考えられています。その中でも根本の原因は心の持ち方です。

 私たちは心の奥底に不安感や恐怖、欠乏感、自己否定の思いを抱えながら、なんとか幸せになりたいと必死で努力をしています。こうならなければならいという強いこだわりを持って生きています。しかし望みとは反対の結果を見なければならないことが多いのです。そして環境や相手に対して悲しみや満たされない思い、怒りや憎しみを感じながら日々生きています。こうしてまさに人生は苦とも見えてしまいます。そしてこれらの思いや感情が病気を生み出してしまうのです。これらの心の中での堂々巡りからどうすれば抜け出すことが出きるのでしょうか?

 これはまさに私自身の苦しみでした。なんとかここから脱出したいともがいてきました。しかし懸命にもがけばもがくほど泥沼のような苦しみに落ち込んで行きました。蟻地獄でもがくようなものでした。しかし答えを求めるうちに光に出会うことが出来ました。
釈迦や老子やイエス、エックハルト・トール氏やロスコ氏その他多くの先人たちがこの苦しみから抜け出す道を示してくれていたのです。

 私たちは不安・恐怖に捉えられたり、怒ったり、悩んだり、どうかしなければと考えたりする自分を自分だと思ってきました。しかし先人達は共通して、それは自我にすぎず、ほんとうの自分ではない。不安になったり、許せないと怒ったり、悩んだりする自分と言うのものは本当は存在するものではない、そのことを理解せよと語ってきました。その自我を超えたところにほんとうの自分がいると語っているのです。

 さらに私たちの心の内側の状態が私たちの外側の世界を生み出しているのだと言います。内側が先で外側は結果である、大事なのは内側である、というのです。ネガティブな現状を見て不安・恐怖に囚われると不安・恐怖を感じなければならない状況を再度生みしてしまいいます。しかし、逆に心を平和に豊かに保つことが出来れば平和で豊かな世界を生み出ことが出来ると言うのです。しかしこのような世界観は今の常識とは全く異なるもので、私たちには受け入れるのが難しいのです。しかしこの世界観を受け入れて苦境から脱出したという人が多くあるのです。様々な宗教の世界で語られています。しかし宗教を離れても、癌になって癌に感謝していたら癌が消えたと話も時々聞きます。自分の心が外側の世界を生み出しているのです。大切なのは自分の内側だというのです。また最先端の量子力学のなかでもこの世界観を支持する見解が生まれてきているのです。

 

 自我は私たちの思考や感情を生み出すのです。この私たちの自我・思考は本来一つであるものを二つに分けてしか理解できないのです。本来の姿であるあるがままを捉えることが出来ないのです。思考はまず自分と対象を別々のものとして分けて捉え、さらに次に対象も自分も、それぞれ両面あるのですが片側だけを自分と捉えてしまうのです。これが苦しみの根源でした。私たちの思考は二元論に囚われてしまい、相対思考となっているのです。私たちの目に見えるものは対象の二つの面のうちの一つだけでありであり、他方は見えないのです。又私たちの内側の気持ちも二面あるのですが私たちは一面しか意識できません。そして対象の見た一面、自分の意識した一面にジャッジを行い、思いと言葉で色づけ、加工を行い、いい・悪いと決めつけるのです。こううして私たちの理解は本来の姿、あるがままからどんどん遠ざかってしまっていたのです。私たちは相対思考に陥ったあげく、相対の片側を自分だと思い込んでしまうのです。例えばすべてをプラスとマイナス、上と下、右と左、暖かいと冷たい、恐怖と安心、病気と健康、出来ると出来ない、長所と短所、優れていると劣っている、美しいと醜い、善と悪などの二つの相対に分けて理解しようとしたのです。そして多くの場合思考は二つの相対のなかでネガティブな方を自分だと思い込むのです。そしてこのネガティブから何とか抜け出さなければと思い必死になるのです。これが今までの私たちでした。
 

 しかし本当はこれらの相対は全てペアで表裏一体、同時存在していたのです。マイナスはマイナスだけでは存在できないのです。マイナスがあれば必ずプラスも同時に存在しているのです。もれなくです。だから元々何も問題は存在しなかったのです。私たちは元々完全だったのです。これが私たちのあるがままの姿だったのです。しかし私たちの相対思考は片側にすぎないネガティブを自分だとして問題を作ってしまったのです。自我が問題を作っていたのです。だからこの相対思考をストップさせるのです。自我を終わらせるのです。必要なところだけで思考を使うようにするのです。そうすると元々のあるがままの安心感と豊かさ、完全性のなかに帰れるのです。先人は思考のストップした無我の状態がほんとうの自分なのである、そして本来の無我の自分に戻ったとき、自由に、豊かに、幸せに、思うがままに生きられるというのです。黄帝内経の言葉で言えば「恬淡虚無(てんたんきょむ)」と言う言葉で表される心の状態です。

思考(自我)を捨てることの歓びを歌った私の大好きな歌があります。
「捨ててこそ真の命萌え出でて、限りも知らぬ花の道かな」

只是是。今ここ全て円かなり(小浜仏国寺:湛玄和尚)


先人達はの自我(エゴ)から脱する方法を数多く語ってくれてくれています。

最も基本的な方法方法として今の自分を取り巻く状況と自分自身をOKと「受け入れよ」と勧めています。小浜仏国寺の故湛玄老師も「只是是」と色紙に書かれています。

次は自分の思考や感情をいい、悪いの判断をすることなくただただ観察するという方法です。エックハルト・トール氏がわかりやすく説明してくれています。

もう一つは過去・未来を考えることなく「いま、ここ」に生きることです。
私たちは日々の瞬間瞬間、過去の記憶に囚われるか、あるいは未来への希望と不安のなかで生きています。しかし心理的な過去や未来は私たちの思考が生み出したものにすぎません。その結果最も大切な今、唯一の時間である今を取り逃がしているのです。思考は過去、未来の概念で生きています。だから今に生きると思考が止まるのです。こうして自我から脱することができるのです。

 これらは言葉で書くと簡単なのです。しかし私たちが実際に行おうとすると非常に難しいのです。自我が猛烈な抵抗をするのです。また今までの生活習慣が元に引き戻すのです。だからそれを突破していく真剣さが必要となります。

 そこでカウンセリング・話し合いで自分の心を見つめ、気づきを深め、本当の自分である平和なあるがままに碇を下ろして頂きたいと思います。この本当の自分発見の旅のお供をさせてもらいたいと思います。互いに本当の豊かな自分に出会っていきたいと思います。これは私自身の旅でもあるのです。 私自身が旅の道中なのです。

 そして気がつくと安心感の中で笑いながら生きている、不思議なことに見る景色が変わってしまった、問題が消えてしまった、嵐が止み平和になっているなどの経験が起こってきます。
共にほんとうの自分に還る心の旅をしませんか。